やる気がないときはひたすら無気力でいたいと思った話

最近やる気もなくてひたすらだらだらしたい時期がある。

 

会社の勤務も不規則でいつも朝帰りだから寝不足を解消するために夕方まで寝ては夜までボーっとする。

 

一時はカフェに行ってブログを書きまくったり英語学習に勤しむなど意識の高いサラリーマンぶっていたが今はそんな気力がない。

 

30歳目前までその傾向が特に顕著になった。「もっと勉強しなければなー。」「結婚もせずだらしない会社員のままじゃーいけないなー。」と思いつつも無気力症が増すばかり。

 

焦りとやる気が相反してどうしようもない毎日が来た。

多くは求めなくていいかもしれない

僕が尊敬しているニートのphaさんがこんなことを言っていた。

この社会で当然とされているルートがそれほど絶対的な唯一のものでないことを知れば、今感じている閉塞感に少し穴をあけられるんじゃないだろうか

引用元:ニートの歩き方

もっと頑張らなきゃ、もっと勉強して自分を高めなきゃと誰が決めたかも分からない規範意識のプレッシャーに潰されそうになったのが20代。

 

本当はやらなくてもいい「しなければいけないこと」に少々追われすぎていたのかもしれない。

 

何もしない人生は否定されるべきか?

7年前絶縁した親父が口癖のように言っていた言葉がある。

 

「何もしない奴はタダのアホやからな。人として生きている意味がない。」

 

本当にこの言葉がキライだった。何の目的もなくボーっとしていい人生だってあっていいはずなのに人の人生って狭く息苦しくあらなければいけないの?

 

ひたすら寝てテレビでも見て気づいたら夕方だったしご飯の準備でもするかって人生だって1つの幸せの形じゃないか。

 

確かに傍から見たらだらしない(?)かもしれないけれど人生の幸福は人それぞれだし容認されない理由はどこにもない。

30歳になってダラダラする自分を肯定しつつある

30歳になったくらいかな。特に外出もせずひたすら家でダラダラする日が増えてきた。家にいるからと言って勉強に勤しんでいるってわけでもない。

 

ひたすら酒飲んでボーっとしたりアマゾンプライムで映画を観たりひたすらベッドでゴロゴロしてたら気づけば夜だ。

 

20代のころもそんな日が無いわけではなかったんだけど、その日の終わりくらいに「時間をムダにした!」って自己嫌悪に陥っていた。

幸せの閾値が低くなる

しかし30歳で感性が鈍くなったのか欲がなくなったのか何でもない日常をある程度肯定できたような気がする。

 

最近の休みは映画を観たり河川敷を散歩したりと自分の時間軸に沿った生き方ができているのにある程度満足している(会社にしがみついている人生は相変わらずだけど)

 

人の幸せってそんな高尚なものなんていらないよなー。なんであんなに自己啓発セミナーに行ったり勉強したり、どうなるかも分からない何十年も先の将来の人生設計を2週間もかけて計画したりしたのだろう。今思えば気が狂っていたとしか思えない。

 

もっと人の幸せは質素でいいし、そんな生き方が広まればいいと思う。

否定されていい人生はこの世界にはない

日本一有名なニートphaさんの本に載っていた言葉がいまも心に残っている。

自分が何をしているときに一番充実や幸せを感じられるかをちゃんと把握すること

一人で孤立せず社会との繋がりを保つこと

引用元:持たない幸福論

日本人は世間体という誰が決めてたかも分からない重圧に振り回されすぎている(かくいう僕もそうだった)

 

必要以上に自己投資もしなくなった、インフルエンサーのyoutubeにも煽られなくなった(興味本位で見ることはあるけど)、将来不安も少し消えた(ネットの情報を少し遮断したおかげ)

 

もちろんどんな生き方が良かったなんて誰にも分からない。もしかしたら30年後に後悔するかもしれない。

 

ただこれだけは言えると思う。

 

否定されていい人生なんてこの世界には存在しない。自分の幸福の形さえ分かればどんな生き方でもいいでしょう。

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